ネタがない時に引っ張り出すと言っていた、GW特別企画の残り物
今日出してしまいます!
北大水産学部というのは札幌で2年(私の時は1年半)、残りは函館で学生生活を送ります
札幌にいたころは…正直自分でも何をやっていたか思い出せませんが(笑)、函館に行ってからの2年半は、今でも鮮やかに思い出すことができます
それは大学3年の夏ころから、友人たちが所属していたサークルに遊びに行くようになり、気がついたらメンバーになっていたからです
「夏はテニス、冬はスキー」という典型的なチャラそうなサークルで、実際北大水産学部の女子学生メンバーは創設者の代のみ(笑)
悪い噂ばかり流れていたサークルでした(^_^;)
そんなことないんですけどね
ちなみに、私はこのサークルに入るまでテニスの経験は0(スキーも同様)
テニスはやりましたが、スキーはやらずじまい…
まあ、高校から北海道に来たので、やる機会もなかったんですよね
ちょうど、スノーボードが流行り始めていたので、やるならそっちだったんでしょうが
今でもそうだと思いますが、函館というのは車がないとなかなか出かけることが難しい街で、私の友人も1人1台車を持っているのが当たり前でした(もちろん中古です)
毎週金曜日の夜は、小学校の体育館を借りて体を動かし、土曜日の夜は、千代台のテニスコートでテニス
その後はご飯食べに行って、飲みに行くよりも、みんなで車で出かけることの方が多かったですね
ちなみに、私をボウリングに強制的に連れていっていたのは、このサークルのメンバーです
おかげで人並に投げれるようになりました(笑)
10年前くらいまでは、1月2日に必ず集まっていたのですが、結婚して子どももできると、なかなか集まることも難しくなり、今では年賀状のやり取りくらいですね
そろそろ同窓会みたいなのを開きたいのですが…プレジ(サークル代表の名称)、どうでしょうかね?
ちなみに、長崎から北海道に来て、その後も道内を転々とした上に、facebookもしてないせいか、同窓会の案内とか「全く」来たことがありません
みんなの中でどんな扱いなんですかね…死んだことにでもなってるかも(^_^;)
それはそれで、寂しいかな(笑)
それでは、今日はこのへんで
高校時代はアルバイトはしてません
大学時代は、家庭教師、デパートの改装、そして…
フェリーの綱とり
…
わからないですよね(笑)
フェリーが接岸する際に、太い綱で固定します
その綱を岸壁側で受け取り、ピット(フックみたいなやつ)にかける作業です
夏休み期間中、夕方4時から夜10時(12時だったかも)まででしたが…
日給8000円〜1万円でした(多分)
どれだけきついバイトかと思われるかもしれませんが、結構楽です(*´▽`*)
フェリーって頻繁に出入りするわけではないので、基本的に休憩所みたいなところで待機してます
そして入港・出港前になると、ゾロゾロと出て行って、銃みたいなもので錘付きのリードロープが撃たれるのを待つ
それをたぐり寄せて、縄を数人がかりで引っ張り上げてピットにかける
その繰り返しです(出港する時はピットから縄を外して海に落とすだけw)
そりゃ、雨の日は厳しいですよ
カッパ着ながら、なかなか接岸できないフェリーを(風が強いor波が高いと、操船技術がかなり求められるので)1時間以上雨ざらしで待つこともあります
まあ、そんなの毎日ではないですからね
あぁ、1回海に落ちかけて死にそうな目にはあいましたが(笑)
多分、この時給の高さは危険手当なんだなと、その時初めて思い知らされました
でも、それを差し引いても、あれを超えるバイトは、なかなかないと思いますよ
おかげで自動車学校に行く費用を、このバイトだけで貯めることができましたから
ちなみに、このフェリーの綱とり
面接の時に、いつ出勤できますかとの問いに、「いつでもいいです」と答えた人のみがなれたのだとか
そんなの全然知らなかったのですが、駐車場係に回された友人は「知ってたら俺もそう答えてたわ!」と嘆いておりました
駐車場係…大変なのに時給安かったんですよねぇ
皆さんも、これは良かった!とか面白い(色んな意味で)バイトしましたか?
公表できるようなものでしたら、コメントお願いします(*´▽`*)
それでは、今日はこのへんで
これを読んで、何でワシが入ってないんじゃー!と怒る人はいないと思いますが(笑)
中・高・大で強烈に印象に残っている先生を一言つきで振り返ってみようと思います
中学
J先生(体育)色付き眼鏡(サングラス?)をかけ、一見そっちの筋の方ですかという風貌。当時(今でも?)珍しい中学校のラグビー部顧問。柔道の時間に生徒にマッサージをさせるとか、今なら問題になりそうなこともありましたなぁ。
A先生(国語)教頭や校長にはならず、生涯教師を貫いたというお方。ヒゲが濃くて、「今日は結構伸びてるなぁ」と言いながら宿題を忘れた生徒の頬に自分の頬をこすりつけるという荒業は、今ならどういうことになるのでしょうか(^_^;)
I先生(理科)教室のドアを開けると黒板消しが落ちてくるという古典的ないたずらに本気で立ち向かう茶目っ気たっぷりなサッカー部顧問。
K先生(?)私の学年では生活指導を担当していて鬼のように恐れられていたが、上の学年の部活の先輩に聞くと好印象ばかり。生活指導の先生って、怖い先生を演じているんだなぁとその時は思ったが、実は…先生にも色々あるんです
高校
M先生(英語)3年生の時の担任。授業中、お気に入りの生徒のことばかり話す。「○○はいい嫁になるぞ※○○は男子生徒です」はクラスを凍りつかせた名言。3年生のクラス(国立理系)はお気に入りの生徒ばかりが集まったので、ドラフト疑惑が持ち上がったのだが、卒業後に「国立理系なんて担任したくないから、○○と△△と…がいるクラスでないと断ります」と言ったとか言わないとか(笑)
M先生(英語)授業では文法・熟語を重要度に合わせて◎・○・△で分類する。競馬、競輪どちらかがお好きだったんだろうが、当時その話はしたことがない。ことわざ大好き。全然関係のないところで「はい!覆水盆に返らず」「はい!天は自ら助くるものを助く」今でも覚えています(笑)
S先生(数学)東北訛りの酷いお方で私のことは「たぁが!」と呼び「たぁがの解き方は汚い(力技が多かったのでw)」とよく言われていた。「数学はエレガントにとがなければ、ダメなんです!」が口癖。ちなみに、今、高校生を教える時に愛用させてもらっている(笑)
T先生(体育)熱烈な巨人ファン。体育の授業があるときは、必ず前日の巨人の勝敗をチェックしておかなければならない。負けていれば持久走の周回数がアップするなど内容がハードになることを覚悟しなければいけない。
M先生(物理)趣味は山登り。「山はいいぞぉ」が口癖。授業を受けたくない時は「先生!週末はどこかの山に行ってきましたか」と誰かが質問すれば、山談議が始まり確実に授業の半分は潰れる(笑)
大学
T教授…あれは初講義の日。「わからないことは何でも質問してください!」⇒30分後「教授!今のところもう一度お願いできますか?」
「キミは私の授業の何を聞いていたのだね!」
みんな開いた口がふさがりませんでした…都市伝説ではありません、実話です(笑)
M教授…私の指導教授。関西出身らしく会話の節々にその名残が。森林が海に及ぼす影響を科学的に検証した第一人者で、以前中学2年の国語の教科書にも載っていたことがある(宮城県気仙沼市の取り組みと関連して)。○ラ疑惑が学生間で囁かれていたが、確かめた者はいない。
K助手(現教授)…細身の体である、この人の苗字が反則級。もう一人私の講座には体格の良いK助手(現教授)がいたのだが、その人とペアで学会に出た日には自己紹介だけで笑いを取れるという。
「え〜、北海道から来た『くま』です」
※隣に体格の良いK助手がいるので、参加者は心の中で「隣がくまだろ!」とツッコむ(^_^;)
こうやって書いてみると、随分個性的な先生が多かったんですね
悪いことをしたら、げんこつ張られるのが当たり前な時代で、それを親に言おうものなら「あんたが怒られるようなことしたんでしょうが!」と言われましたから
体罰容認ではありませんが、あれはあれでちゃんと抑止力として働いていたと思うんですよね
それでは、今日はこのへんで
中学・高校と剣道部でした(*´▽`*)
大学では…特に何もやっていません(3年の夏からサークルには入ってました)
剣道を始めたのは小学1年生からで、最初は親に言われてイヤイヤやっていました
小学校時代は特に強くもなく、試合に出ても1回戦負け
まあ、基本をしっかり教える道場だったので、試合に勝てる技なんて知りませんでした(笑)
それが中学になり、剣道部に入ると隣のめっちゃ強い道場の子がうじゃうじゃと(^_^;)
おまけに外部コーチも隣の道場の先生
練習方法から何から全然違う
面すりあげ面??小手すりあげ面??出ばな面??
やったことのないものばかり、でも楽しい(*´▽`*)
こうしたらいいんじゃないか、自分で色々と工夫したり技を考えたり
そうすると、不思議なものでどんどん力もついてくるのです
もちろん、小学校時代に道場で基本をきっちり教えてくれたからということもあります
気がつけば、隣の道場の子を差し置いて、部員50人の大所帯のキャプテンでした(^_^;)
試合に出ても、とんでもなく強い子以外には勝てるようになりました(主将だから負けられないというプライドもあります)
そして、中3の中体連(長崎では中総体)で長崎市団体3位という結果を出すことができました(準決勝で負けた長崎南山はその年全国制覇しました)
さて、高校に入って、すぐ剣道部に!
というわけではなく、実は入部を迷っていたのです
剣道部って、基本坊主頭じゃないですか
ちょっと色気づいていた私は、それが嫌だったのです(笑)
でも、剣道部を見学に行ってみると!
みんな普通に長髪だぁ(*´▽`*)
これで、障害はなくなりました(笑)
ただ、私の母校の剣道部
顧問の先生はいたものの、剣道経験者ではなく大会の引率のみ
普段の練習は部員だけでやってました
日曜日に市民体育館でやっていた稽古に出たりなどもしていましたが、やはり指導者がいなければ強くなることはなく
高2の冬には団体で全道新人戦に出場しましたが、3勝1敗で予選リーグ敗退
それが最高の成績でした
今の生徒たちを見て思うのは…
お揃いの学校名の入ったウインドブレーカーとか着たかったなぁ(´;ω;`)ウゥゥ
当時なかったんですよね(あったかもしれませんが、部費がなくてそこまで手が回りませんでした)
以上、部活の話でした
それでは、今日はこのへんで
長崎には小4から中3まで住んでいたのですが、中学校が小高い丘の上に建っていて、麓の門から校舎までは坂道一本
裏門などは存在せず、その道を通らないと校舎にはたどり着けない仕様になっていました
そして私の住んでいたところが、門から10mちょっとの距離(笑)
つまり、中学3年間、寄り道を一切することなく帰宅していたのです
それが、高校は晴れの日は自転車で激走して20分
雨の日はバス20分+徒歩10分という状況でした
中学時代、抑圧?されていた私が、この環境を逃すはずもなく
門限ぎりぎりに帰る生活を3年間続けました(笑)
うちの家、門限遅れると晩御飯抜きだったんですよ(;・∀・)
いや、遅れたことなかったので、本当に抜きになったのかわかりませんが…
とにかく、うちの母親はワイルドな人で、私が幼稚園の時、流行っていたスカートめくりを道の真ん中でしたときに
報復に私のズボンを下げた(多分パンツも一緒にw)人です(笑)
そんな人ですから、晩御飯抜きもやりかねんなと(^_^;)
ちなみに、どこに寄り道をしていたかというと、私と同年代で函館に住んでいた人には「ジャンプ」と言えばわかるでしょうか?
今でいうラウンドワンのような、カラオケBOX・ビリヤード・ゲームセンターが一緒になった施設があったのです
ビリヤード…流行りましたねぇ
世間では映画「ハスラー」「ハスラー2」のヒットによるものが大きかったのでしょうが、私にとっては「ブレイクショット」という高校生が活躍するマンガの影響が大きかったです(笑)
土門スペシャルとか、日高のセフティとか懐かしい(*´▽`*)
まあ、そこの常連だったわけです
ですから、高校生がよく「お小遣いが飲食代に消える」とか言っているのですが、私は「食費を削ってでも遊ぶ方に金を使うぞ」というタイプだったので(友人も)、友達と一緒にご飯を食べに行った記憶がありません(笑)
我ながら、偏った高校生活だったなぁ
そんな、私の高校時代の象徴ともいえる「ジャンプ」も今はなく
函館の高校生は、どこで遊んでいるんですかね
それでは、今日はこのへんで
勉強編といっても、「自慢か!」と言われそうなので成績の話はしません(笑)
得意な教科は、地理と化学
地理は小さいころから時刻表と地図ばっかり見ていたので(笑)化学は…何でだろう、でも好きだったんですよね
不得意教科は、英語(笑)
でも、定期テストや模試ではまあまあ取れていたんですよ
多分、センター試験での失敗で、英語=苦手と私の中で刷り込まれたんです(笑)
そういえば、私が高校生の時、数学は「数学I]「基礎解析」「代数幾何」「確率統計」「微分積分」と分かれていました
代数幾何、大好きか?
確率統計、ほっとけー
微分積分、いい気分
今、考えたわけではありませんよ(^_^;)当時言われてましたから
そして、国公立大学を受験する際、「前期・後期」「A・B」と2種類あって、私は前期⇒Bという受け方(前期の合格発表の前にB日程を受験する)をしました
結果、前期で合格したのでB日程の結果はわかりません(笑)
さて、大学では気象について勉強したかったのですが、気象学の講座に確実に行ける保証がなく、もし行けなかった時は全く興味のない講座に行かなければいけないリスクを考えると、それなら次に興味のある化学に関する勉強ができるところがいいということで、水産化学科に進みました
そして4年生になり、海洋化学講座に所属することになり、4月の顔合わせの時、大学院の進学希望&船に乗っても大丈夫ということで、北西太平洋の海水中の鉄の分布についての研究テーマが与えられました
大学4年の時に1か月、修士1年の時に2週間、大学の練習船に乗りました
他の学生と違って研究員としての立場だったので、当直などもなく、楽だったと思います
船酔いも、最初の津軽海峡抜ける時にちょっとしたくらいで
その時の晩御飯、私ともう1人しか食べませんでしたからね(^_^;)それくらい酷い揺れでした
あ、楽だったと言っても、朝の操業(流し網の引き上げ)は手伝いましたよ
あと、星が凄くきれいでした(*´▽`*)
そりゃそうですよね、周りに全く明かりがないわけです(東経175度、太平洋のど真ん中ですから)
船に乗った時の話は、まだまだたくさんできます(ここでは書けないような話も含めて)が、ここまでにしておきましょうね
それでは、今日はこのへんで
私が高校1年生だった1988年1月
世の中は、昭和から平成へと変わりました
今から29年前です
…
書いていて恐ろしくなりました(笑)
もちろん、携帯電話などなく、友達同士で連絡を取るのは家の電話のみ
そう考えると、今の子は恵まれてますよね…昔は女の子と連絡を取ろうとしても「親」という壁を乗り越えなければいけなかったわけですから(笑)
私が携帯電話を持ったのは大学4年生のとき
近所のスーパーで、くじを引いたら当たりました(笑)
と言っても、それは全員が当たるくじらしく、要は携帯電話を世に広めるために、タダで端末をばらまいていたというわけですね(^_^;)
当時はそんなに持っている大学生も少なく、しかも電話&同じ携帯会社どうしでの50文字のショートメールのみ
ネット??
ないない(笑)
今から15年くらい前までは、通称「テレホタイム」と言って夜の11時からじゃないとネットしない時代ですよ
パソコンも、私が大学生の時は、みんなMacを買ってましたね
大学院1年生の時に、後輩がwindowsのパソコンを使い始めたくらいです(Windows95です)
そういった進歩に比べると…車って変わらないですよね
相変わらず、ガソリンでゴムのタイヤはいて
未来予想みたいなやつだと、とっくに空飛ぶ車みたいなのができていてもおかしくないはずなんですが(笑)
というわけで、これからGW期間中は「私の学生時代」と題して、当時を色々と振り返ってみようと思います
昔の知り合いで、見てる人いないよな…(^_^;)
それでは、今日はこのへんで
よく行くコンビニの店員さんなんかは「こいつまたこれか」とか思っているかもしれません(笑)
この仕事になってからは、朝食は食べず(朝起きるのが遅いので)、昼と夜の二食
さすがにこの歳で、夜に食べ過ぎると体に悪いと思ったので、去年の今時期くらいから軽く食べるようになりました
春雨と野菜(サラダ)中心ですね
おかげで、風邪は引くなど、体調を崩すことはなくなったような気がします
子どものころから嫌いなものは先に食べて、好きなものは後に残すようにしています
食事を残すのはかなりうるさく言われていたので、どうせ食べるなら先に嫌いなものを食べてしまったほうがいいだろうという習慣がそのまま残っているんでしょうね(笑)
ちなみに、しいたけ・かにみそ・タチ・牛乳がダメです
かにみそとタチは頻繁に食べるものではないのですが、しいたけと牛乳は困りましたね
おかげで、牛乳の一気飲みは早くなりました(笑)
でも牛乳はだめでも乳製品(チーズ・ヨーグルト・カルピスなど)は大丈夫なんですよ
まあ、そういう人多いでしょうけど
さて、GW特別企画も今日で終わり
最後のほうは、結構苦しかったです(笑)
来年は、また違うことを考えようと思います
苦しくても、テーマを決めてしまったほうが書きやすいのは事実なので
それでは、今日はこのへんで
タブレットから更新しようとしたら入れず
携帯から更新しようとしたら、投稿できず
結局、古いパソコンを引っ張り出して更新しております
設定いじらないといけないのかなぁ
さて、本題
服装編と言ったって、プライベートのファッションのことではありません(笑)
仕事上での話です
前の職場ではスーツが義務づけられていたのですが、自分で教室を開いてからは、別に私服に変えてもよかったんですよね
でも、スーツの方が気が引き締まるんですよ
結局、ネクタイもそのまま締め続けています
今、ネクタイしている人少ないですよね(-_-;)
あと、教室では上着脱いで基本シャツだけです(夏も冬も)
さて、いよいよ明日でGW休みも終わりなんですが…
今回の休みは長く感じましたね
まあ、年に一度の長期休暇ですから(秋と春は面談で実質休みではありませんからね)
来年は…旅にでも出たいですね(笑)
それでは、今日はこのへんで
そのせいなのか、今でも長めの髪は苦手です(^_^;)
染めたのも、パーマかけたのも一度だけ
まあ、一度もしたことないってのも寂しいので良かったかな(笑)
最近、髪の量が少なくなってきたような気がして、危機感を持っていますが、うちの父は白髪でハゲてないんですが…
祖父はわかりません、戦争で亡くなっているので
これからも、突拍子のない髪型にはしないと思います
さて、GW休みもあと僅か
そろそろ準備を始めましょうかね
それでは、今日はこのへんで